Column

2024.07.01 update
作家としての節目は軽井沢星野エリアと共にあった

小池 真理子作家

『軽井沢ホテルブレストンコート』との意外な関係とは

1990年5月に、夫婦で東京から軽井沢に移り住み、好奇心の赴くままに散策しているときに初めて星野エリアに足を踏み入れました。まだ、星野温泉旅館しかない、ひなびた風情が懐かしく思い出されます。

そのうちにひょんなご縁もできました。

引っ越してきた当時、私どもの住まいは、つづら折りの坂道を登った山の上にありました。雪が降ると場合によっては除雪車も上がってこられず、冬ごもりのような生活を余儀なくされてしまいます。これではやっていけないかなと案じていた時、麓の方に小さくて手頃な土地が見つかりました。思い切って購入。そこに冬用の小さな家を建てることにしたのですが、設計を引き受けてくれた建築家の友人がこう言いました。「今度新しくできたホテルブレストンコートはすごいわよ。窓ガラスが三重構造で断熱性がすこぶる高いから、ぜひ見ていらっしゃい」。

すぐに確かめに行くと、館内は隙間風が一切感じられなくて、暖房の効きもよく、とても快適。北欧製の窓ということでしたが、それはそれはすばらしかった。早速、わが家の冬用の家にも、同じものを使うことに決めました。私が軽井沢で、一年を通して快適に暮らせるようになったのは、ホテルブレストンコートのおかげでもあるのです。

軽井沢の丘の上に佇む軽井沢ホテルブレストンコート

あの長編小説は軽井沢星野エリアで磨かれた⁉️

星野エリアでの思い出は数え上げたらきりがありません。気軽に利用していたのが『村民食堂』。夫や、編集者たちとよく食事を共にしました。2階が大広間になっていて、編集者たちや作家仲間を集めて宴会を開いたこともあります。

この数年で特に印象的な場所を挙げるとしたら、ホテルブレストンコートの『ヨコブキヴィラ』になるでしょうか。私がほぼ10年の歳月をかけて書き下ろした長編小説『神よ憐れみたまえ』が完成した直後のことです。打ち合わせをするために、担当編集者と共に利用させていただきました。1000枚を超える大長編ですから、編集者が持参した原稿のコピーは厚い束になっていたものです。とにかく、思い入れの強い作品でしたし、大切な打ち合わせでしたので、静かでリラックスできるところを提供していただけたことがありがたかったです。

翌年、新潮社から刊行された際には、たくさんのインタビューを受けました。いつものように星野エリアを使わせていただき、敷地内のあちこちで写真撮影も行いました。そのあと『星のや軽井沢』のメインダイニング『日本料理 嘉助』で、担当編集者とささやかなお祝いの食事をいたしました。特別な作品だったので、忘れられない思い出になっています。

その数年前のことでしたが、夫(作家の故・藤田宜永)が吉川英治文学賞を受賞し、文芸誌の企画で夫婦対談が行われました。たまたま結婚式が重なった時期だったのでしょう、混み合っていて、ホテルブレストンコートに利用できる場所がなく、困ったなと思っていたところ、特別に星のや軽井沢の中のスペースを用意していただくことができて、一同、ほっとしました。吉川英治文学賞は私も受賞した賞です。夫婦そろって嬉しい対談ができたあの日のことは、今も忘れられません。

軽井沢星野エリアには“本質”と向き合い続けてほしい

軽井沢には歴史と伝統に培われた唯一無二の様式美が存在していて、私の作風に多大な影響を与えました。今やここで生き、ここで書き続けることは私の宿命だったとすら感じています。

実を言うと、そのうちまた、軽井沢を舞台にした新しい作品に取りかかりたいと思っているのですが、先日、星野温泉の二代目・星野嘉助さんがお書きになった『やまぼうし』という本を友人からプレゼントされました。

軽井沢は単なる高級リゾート地ではなく、戦時中、多くの外国人が居住していたり、疎開先に使われたりなどして、歴史の一端を担ってきた土地でもあります。その奥深さは計り知れません。そうした土地で、星野リゾートは110年もの長い間、軽井沢の象徴のような場所であり続けたのです。改めて、その役割の重みと豊かさを感じます。

今、デジタルが猛烈な勢いで発達を遂げ、人間の在り方が変わってしまっているように思います。でも、人の本質は変わりません。変わりようがないのです。私は作家として、本質的なものから目をそらしたくないといつも思っているのですが、ぜひ、星野リゾートにも「本物」「本質的なもの」を追求し続けていただきたい。星野嘉助さんが抱いた密かな意気込みをこれからも絶やさず持ち続けていただきたい。そうすることによって、私たちが危うく忘れそうになるものを再び、しっかりと取り戻すことができるような気がします。大いに期待しています。

110周年を記念したアフタヌーンティーを提供
Profile

小池 真理子作家

1952年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業後、'95年に『恋』で直木賞受賞。以降も多くの文学賞を受賞。代表的な長編作品に、『無伴奏』『欲望』『沈黙のひと』『モンローが死んだ日』『神よ憐れみたまえ』。短編集も多く、『ソナチネ』『異形のものたち』『日暮れのあと』など。最近ではエッセイ『月夜の森の梟』が話題になった。